皇后雅子さまの、独身時代の経歴がすごいと話題です。
雅子さまが皇室に嫁がれた時代をリアルタイムで見ていた年代の方にとっては、当然の情報としてご存じの方も多いと思います。
しかし若い方などは特に、雅子さまがどのような経歴の持ち主なのか、知らない方も多いのではないでしょうか。
子供の頃からすごい人だった雅子様
皇后雅子さまの、独身時代の経歴がすごいと話題です。
雅子さまの経歴を知り、驚かれる方の声も、SNSなどでは度々上がっています。
雅子さまが皇室に嫁ぐ前は外交官をされていた、ということは知っている方も多いかもしれませんが、具体的にどのうなすごい経歴をお持ちなのでしょうか。
本記事では、子供の頃からすごい経歴を持つ雅子さまの独身時代の経歴について、時系列でまとめました。
【画像】雅子さまの独身時代の経歴まとめ!【子供時代~結婚まで】
誕生
雅子さまは、1963年(昭和38年)12月9日生まれ。
旧姓は小和田 雅子(おわだ まさこ)さんです。
外交官であった父・小和田恆(おわだ ひさし)さんと、妻の優美子さんのの長女として、東京都にある虎の門病院にて誕生しました。
出生時は一家で世田谷に住んでいましたが、父の恆が在ソ連日本大使館一等書記官に就任したため、1歳数か月頃からソビエト連邦・モスクワで過ごします。
幼少期
2歳
2歳の頃はモスクワ市のクツゾフスキーで過ごし、モスクワ市立ジェツキサートNo.1127保育園に通園。
慣れない言語や集団生活で泣き出すことがありつつも、ロシア語もすぐに上達し、寝言もロシア語で言うほどだったそうです!
3歳
1966年7月、一家でスイス連邦・ジュネーブに引っ越します。
ジュネーブでは、双子の妹、礼子と節子が誕生。
母の優美子と生後直後の妹はベルンのスイス大使公邸に滞在し、父の恆と雅子さまだけモスクワに戻り家政婦と3人での生活が始まりました。
幼い頃にコロコロと住む環境が変わっていますね。
4歳
1968年5月から、父が国際連合日本政府代表部一等書記官に就任。
アメリカ合衆国のニューヨークに一家で渡りブロンクス区のヘンリーハドソン・パークウェイという郊外で過ごしました。
この頃からブロンクス区内のコンドミニアムに家族と引っ越し、同年9月から1年間、ニューヨーク市立第81パブリックスクール付属幼稚園に通園しました。
この時点で、既に日本語、ロシア語、英語の3か国語に触れています…!
5歳
1969年9月、市立第81パブリックスクールに入学。
この頃からピアノを習い始めます。
7歳
1971年3月、父が、内閣総理大臣だった小泉純一郎さんの後任で、外務大臣秘書官事務取扱に就任。
小和田家は日本に帰国し、新宿区の国家公務員官舎に引越します。
目黒区立原町小学校第1学年に編入し、5月には新宿区立富久小学校第2学年に編入します。
小学生
8歳
1972年4月、田園調布雙葉学園・田園調布雙葉小学校の3年生に編入学。
生物部に所属し卒業文集に「将来は獣医になりたい」と書かれています。
この頃から目黒区の祖父・江頭豊宅にて同居をはじめる。
中学
田園調布雙葉中学校に進学し、自らソフトボール部を結成し活動しました。
優勝した時、優勝カップにジュースを注ぎ、部員みんなで回し飲みしたというエピソードもあります。
あまりイメージにはありませんでしたが、スポーツに対しても活動的だったようですね!
高校
1978年4月、田園調布雙葉高等学校に進学。
1979年、高校2年生の時、父が在米日本大使館公使に就任したため、家族でボストンに移住します。
アメリカ移住後は、マサチューセッツ州立ベルモント・ハイスクールへ、日本の高校2年生に相当する11年生として転入学し、2年間通学されました。
ここではソフトボール部と数学クラブに所属していたそうです。
雅子さま、ソフトボールが好きだったんですね…!
在学中は、地元紙が年に数回掲載する「成績優秀者」の欄に常に登場していたとのこと。
また、ドイツ語科において、ドイツ政府運営のドイツ総領事賞及びゲーテ・インスティトゥート賞を受賞するなど、語学活動にも熱心でした。
高校から大学1年にかけて講談社がアメリカで編集製作していた『エンサイクロペディア・オブ・ジャパン』(英語版日本百科事典)の編集も手伝っていたそうです。
なんとこのベルモント・ハイスクールでは、High Honor student(最優等学生)と認められ、アメリカ政府が米国全体の上位5%の生徒に贈る「ナショナル・オーナー・ソサイティー」National Honor Society(NHS)を受賞されています。
大学
1981年、ハーバード大学経済学部に入学。
ハーバード大学のほかイェール大学、プリンストン大学など複数のアイビー・リーグ校に合格しています
「日本で就職するには名前の通った大学がいい」と考え、ハーバード大学をに進学されました。
父の恆が在ソ連特命全権公使に就任したため、家族はロシア連邦のモスクワに引っ越しました。
雅子さまはアメリカに一人暮らしとなりました。
1年次の夏休みにはドイツのゲーテ・インスティチュートで2か月滞在しドイツ語の特訓をし、2年の夏休みにはフランスのグルノーブル大学のフランス語夏期講座に参加するなど、外国語の学習活動も活発だったそうです。
この時点で
・日本語
・ロシア語
・英語
・ドイツ語
・フランス語
の5か国語を学ばれています。かなりすごいですね!
また、1年次に日本文化クラブ(Japanese culture society)を自ら創設し、1年次には書記を担当、2年次で副会長、3年次には会長を務めました。
知日派の研究者たちを招待しての講演会、浮世絵や能の紹介、黒澤明監督作品などの日本映画上映、習字・折り紙の紹介、日本食の試食会、ダンスパーティーなど日本文化を紹介するイベントを企画実施したそうです。
中学のソフトボール部創設に続き、あのハーバード大学でもクラブを創設!
社会人
1985年に、ハーバード大学を卒業。
ここでも成績優秀な学生に贈られる「Magna Cum Laude(マグナ・クム・ラウデ、優等賞)」を受賞しています。
1986年、東京大学法学部第3類(政治コース)の3年生に外部学士入学されます。
駐スウェーデン特命全権大使・村角泰の娘が外交官になったことに刺激を受けて外交官を志し、外務公務員採用I種試験(外交官試験)に合格して外務省入省が決まりました。
1987年に東京大学を中途退学し、外務省に入省。
【外交官時代の配属先】
経済局国際機関第二課
↓
外務省の研修留学としてオックスフォード大学ベリオール・カレッジに留学
↓
北米局北米二課
※外務省での職歴は5年10か月でした。
週に3日は日付が変わってからの帰宅になる程の激務だったそうです。
当時の同僚である海部優子は、「日米構造協議の最中は全員が何日も徹夜が続きスタッフが殺気立ってる中、雅子だけは常に笑顔で、タフな仕事をこなしているのにエレガントだった」と語っていたそうです。
1991年には、スウェーデン首相イングヴァール・カールソンの歓迎夕食会に通訳で出席。
港区外務省飯倉公館で行われた米国国務長官ジェイムズ・ベイカーと当時の外務大臣渡辺美智雄、竹下登、中曽根康弘の会談の通訳などとしても活躍されました。
まとめ
生まれたばかりの子供の頃から、世界各国を飛び回り様々な環境で学ばれてきた雅子様。
育った環境を活かしながら、雅子さま自身の持ち前の優秀さやアクティブさで、数々のすごい経歴を積んでこられたことが改めて分かりました。
天皇陛下と共に公務に出られることも多くなったため、今後もご活躍に注目していきたいです!
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